【書籍紹介】西岡常一『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』(前編)【10月18日に買った本の紹介⑩】
『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』西岡常一 小学館ライブラリー
法隆寺・薬師寺の宮大工棟梁が著者の本。
元々色々な職種の人の仕事の話を知るのが好きで、大工の棟梁でしかも寺院に関わっている人となると俄然興味が湧いたため手に取った。
本文は語り口調で書かれており、宮大工棟梁という荘厳な職業とは打って変わって、かなりの親近感を持って読み進められる本となっている。
それでいて内容は核心的。
寺院の部材となる樹木と、それを育む大自然への思いやりに満ちた生命観や、1000年を越える歴史を持つ建造物を後世に繋げるべく身を捧げた人生観には、軽率な気持ちでは立ち入れない厳格さも含まれている。
同じく手仕事をしている身として学ぶところが多くあり、とても読み応えがあった。
惜しくも既に亡くなられてしまっているが、本という媒体を通してこの方の生き様・哲学に触れられたことは、非常に有難い。
目次
著者紹介
西岡常一氏は、1908年生まれ・没年1995年の、法隆寺の宮大工棟梁を務めていた人物。
『木に学べ』の初版発行は1988年で、当時は80歳になる。
法隆寺のほか薬師寺でも伽藍や塔の修復に携わり、多くの仕事で棟梁を務めていた。
法隆寺といえば世界最古の木造建築物であり、その修復に携わる第一責任者だったというだけで、優れた人物であったことが想像できる。
「樹齢1000年の木で作った建物は1000年保たせねばならん」
「木を知るには土を知れ」
等の発言が氏に関する多くの評伝で名言とされており、自然が育んだものに対する畏敬の念を大切にしていたことがよくわかる。
修復作業の中でも、学者とは意見が衝突することが多く、当時理論上最適とされていた建築技法に対して、自身の経験や知恵から断固として己の意見を押し通し、限りなく建立当時の様式に近い形で寺院を修復することもあったようだ。
氏に付けられた「法隆寺の鬼」という氏の異名は、木や寺院に対して身体で向き合わず、学問だけで口を出す者に対する物言いの痛烈さに由来しており、学者たちの間で広まった呼び名らしい。
氏の祖父と父も同じく法隆寺の宮大工棟梁であり、幼少から仕事を継ぐことを念頭に育てられていたという。
1921年(当時13歳)の頃には祖父の勧めで農学校に入っており、その経験は大いに役立った、と氏は晩年に語っている。
内容紹介と感想
概略
「宮大工」という職業の特色、普段使いの仕事道具や再建に関わった法隆寺・薬師寺の解説など、西岡常一氏の仕事について一通りを概観できるエッセイ集。
前述した通り、本文は全て語り口調で書かれているので、本といえどまるで肉声で氏の言葉を聞いているかのように、氏の人柄を感じ取りながら読み進めることができる。
晩年の書籍ということもあり、どの話題を切り取っても氏の深い思想が反映されている。
通奏低音として流れるのは、自然に対する愛と、自然と見事な共生をしていた建立当時の法隆寺大工への尊敬の念。
物言わぬ自然を敬い、木を利用するからには木の良いところを活かしきろうとする氏の精神は、農業で養った自然との関わり方や、宮大工として長らく樹木や部材に接した経験に由来するものだろうと本書を通して推測できる。
氏の歴史観
また、氏は携わった寺院について、建物内の部材の状態を見れば、どの部材がどの時代に付け加えられたものなのか判別することができると言う。
建立当時の飛鳥時代には、法隆寺の部材にはヒノキが使われていた。
樹齢が最も長くなるのはヒノキであり、曲がりや捩れといった「木のクセ」を活かして部材を切り出すと、その木の樹齢と同じか、それよりも長く保つ建物ができる、と氏は語る。
当時の大工が優れていたのは、ヒノキが一番長く保つということを理解していたことと、木のクセを活かしきった見事な仕事をしたことだと氏は絶賛している。
それに対し、後年の補修材はケヤキが使われており(鎌倉時代)、ヒノキの部材よりも先に反り曲がってしまったり、建立当時にはなかった装飾が付け加えられたりする(室町時代)例も出た、などと解説されている。
自然そのものや歴史上の文化物に対する知見が時代によって変化している、ということを宮大工ならではの視点で分析しており、特に古代・中世・近世を跨いで比較する解像度の高い歴史観には高い説得力が感じられ、非常に勉強になる部分だ。
華美に装飾された江戸時代の日光東照宮を嫌悪するのは、飛鳥時代の建造物を扱う氏ならではの質素で荘厳な美意識が根底にあるのだろう。
(後編)へ続く。
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