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【書籍紹介】西岡常一『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』(後編)【10月18日に買った本の紹介⑩】

 

(前編)はこちら。
【書籍紹介】西岡常一『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』(前編)【10月18日に買った本の紹介⑩】 - 北澤の雑記ブログ

 

 

 

内容紹介・感想

稲と話す農民、本と話す農学生

農学校卒業後、祖父に命じられ1年間農業に従事した氏は、学校で学んだ通りに農業をしても周りの農学を学んでいない農民よりも収穫が少ないことに疑問を持った。

それに対し祖父は、

「お前はな、稲をつくりながら、稲とではなく本と話し合いしてたんや。農民のおっさんは本とは一切話はしてないけれど、稲と話し合いしてたんや。農民でも大工でも同じことで、大工は木と話し合いができねば、大工ではない。農民のおっさんは、作っている作物と話し合いできねば農民ではない。よーく心得て、しっかり大工をやれよ」

と語ったという。


氏は当時を述懐して、

「実際にやってきたものの強さがあるんですな。」
「木も建物も、同じですわ。作りながら話し合って、はじめてわかるこというのがあるんです。」

と語っている。

 

学者との対立

この記述が出てくるのは、「第六章 棟梁の言い分」という、氏が法隆寺薬師寺再建に際して学者と巻き起こした様々な論争を描いた章だ。

両者の間で、長く保つ良い修復を施したい、という意見は一致していた。

しかし、手仕事で経験を積み、木を活かせばそれだけで耐用年数が保つと実感している氏と、建築学の観点から、西洋建築を参考にしたり鉄骨を用いたりと新たな技術を取り入れて長く保たせようとする学者の間の溝は深かったようである。

氏は、その件に対して

「結局は大工の造った後の者を系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下ということです。」

と痛烈な言葉を残している。

 

「学者」と「実践者」

このような、学者と作り手、いわば「実践者」の間に隔たりが生じる例は珍しくはない。
なぜなら、学者が扱う「学問」は、構造上常に実践者の後手後手に回らざるを得ないからだ。

「学問」の性質

学問とは、「ある分野について体系的にまとめられた知識や技術」を指す言葉である。
その体系化の作業は、基本的に「現実に起こっている事象を分析し、それを言葉で説明すること」で成り立っており、それを本分とするのが学者だと言える。

事象を分析する作業が研究、それを説明する作業が論文発表だ。

建築学では、学者の他にも実際に建物の実現に携わっている建築家がいる。
実際に手を動かす建築家と、既存の建築を分析・評価する学者では、活動していて手に入る知識が全く異なってくるのである。

新しく設計を計画する際に、今までの建築物の情報をベースに合理的な立案をするのは学者の得意な領域であるが、その案を実際に実現しようとする場合、合理的だと思っていた部分がどうしても道理に合わないというケースはよく生じる。
そのとき、それに対処できるのは現場で経験を積んでいる実践者の能力だけである。

「学問」の取り扱い

学問が立派な営みであることは間違いなく、歴史や前例を学ぶのは大切なことである。
しかし、学問が既にこの世の全てを解明しているかと言えばそうではないし、そもそも解明し切ることなんて土台無理な話である。

忘れてはならないのは、理屈抜きで自らの身体で経験をしないと理解できない物事も多く存在する、ということだ。

体系化された知識を得ると、ややもすればその体系化されたもの以外を理解するのが困難になってしまう場合がある。
お互いに良いものを作ろうとしているのに、知識ベースか経験ベースかで意見が全く食い違ってしまう、という場面は珍しくない。

特に、建築学のような、学者よりもまず先に実践者である建築家がいる分野の場合には、学者の分析しきれない、実践者だけが知りうる事実があることは念頭に置かなければならないだろう。

「学問」と「実践」の均衡を保つ

私が活動の中心にしている踊りも同じである。
身体に関する学問には解剖学や運動生理学があるが、私が日々自分自身の踊り方を研究しながら、それらの勉強も並行して行っていて思うことがある。

確かに、身体に関する学問を学べば、自分の身体をより良いものにするために良い作用があるのは間違いない。
しかし、身体には個体差があり、それらの学問の内容が全て私の身体にも当てはまるわけではないのだ。

踊りはスポーツではなく芸術表現であるため、パフォーマンスのために最適な身体の動かし方があるわけではない。
例えば、身体の角度や軌道・使う筋肉の数一つで見た目の印象が変わる繊細さがある表現のなかで、知識による先入観は毒になることもある。

実践者でありながら学問もやるという場合には、常に前者の心意気が勝るように振る舞っていなければならない、と私は考えている。
そうしていながらも知識が直感を邪魔する場面も多く、経験や身体で腑に落とせていない知識は利益よりも不利益になることの方が多いのではないかと真剣に思うほどだ。

 

所感

本物は、古くならずに深くなる。

法隆寺が素晴らしいのは世界で一番古い建築物だからではなく、気候・環境の違う中国大陸から伝来した木造建築技術を、日本の風土に合うように見事に再構築した、「人間の魂と自然を見事に合作させた」知恵が宿った建築物だからだ、と氏は言う。

街中やネット上で数多の広告に晒される私たちは、何かの良し悪しを判断するときに内容を精査せずに評判や見てくれだけで判断してしまいがちだ。
中でも、建築を含む文化物や芸術表現に関して、「最も○○だから良い」「人気だから良い」と価値判断してしまうことは、本来作り手がそれに込めたであろう意思や文脈を推察する機会を逃すことに繋がりかねない、とても浅ましい行為である。

自分の身体でもって経験と知恵を付け、木や土といった自然と対話し、先人の技術を尊重し、優れた建築物を生み出せるようになった氏が語る現代への批判は、決して古びることなく、当時よりも深く核心に迫る本物の言説となっている。
私はそう感じずにはいられない。

自ら作り続け、先人と対話し続ける。
一人の芸術家志望として、そういった営みを絶えず繰り返していきたいと、改めて思い起こさせてくれる本だった。