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【日記】2022/11/17

20:37

ブログ開設から4週目に突入

昨日の時点で、このブログを始めてから丸三週間が経っていた。
芸術活動で身を立てることを目標にしている上で、目標に達するまでの下積みとして、自身の言葉で物事を語る場を作る必要がありそうだと思って開始したブログだけれど、今一度その目的に適った発信ができているかどうか考え直す必要がありそうだ。

ただ単純に、自分の頭の中で考えていることを言葉にして残すことのみが、ブログの目的として重要だったはず。
しかし、日を経るごとに読者意識が強くなっていって、記事の装飾とか数字とかに目が移るようになっていった気がする。

間違いないと思う。

ストイックなのはいい事だけど更新ハードル上げすぎると流石にきつい

元々自分の行動を日記につけることが日課になっており、それの延長として人の目に触れる文章も書き始めることにしてみようと思った。
また、自分が普段読んでいる本から何を吸収していて、本を読んだ結果何がアウトプットできるのかを、自分の表現手段である踊りだけではなく言葉でも伝えられるようになりたかった。

その二つの発想が交差して、「毎日ある程度の質を担保した記事を投稿し続ける」というハードなタスクを自分に課すようになってしまったんだろうなあ、と振り返る。

ブログ開始した当初は記事投稿することがもう楽しくて仕方がなかった。日々徐々にタイピングが上達していくのも楽しかった。
ただ、その楽しさでモチベーションが有頂天になってしまい、「毎日2000字は書きたいな」と欲求値がぐんぐん上がっていっていた。『木に学べ』の書評を投稿していた時期。

結果、文量を増やした分執筆に割く時間も増え、本来は補助手段であったはずの執筆がメインであるはずの踊りを磨く時間を圧迫してしまっていた。
文量が増えて何に一番手間が掛かるか、って圧倒的に文章の手直しで、助詞の修正や語彙や語尾のダブり、表現の訂正など文章が増えれば増えるだけ拘りたいポイントも多くなっていくので、それが一番きつかった。
当時書評が中心だったので、著者の情報をリサーチしたり本の中身を点検したりして文章の整合性を整える手間もかなりきつかった。これは本当に毎日やるものじゃあないね…。

『木に学べ』の記事から二週間もまだ経っていないけれど、その当時の欲求に今既に応えられなくなっているから、無理なペースだったんだなと再認識した。

「内省」

無理だとわかったなら修正が必要だけど、どうするべきか。
毎日投稿はしたい。毎日書いた方が閲覧してくれる人が増えやすいのはもう実感してる。
書評は数日にいっぺん、毎日投稿するのは日記だけ、みたいに書く内容に規則性を持たせるべきなんだろうなと思う。

また色々試しながら更新継続していこうと思う。
一度の練習で多くを得ようとするよりも、何より大切なのは継続することだというのは踊りをやっていく中で身体が教えてくれたことだ。

今一度それを思い出して、また道を見失いそうになったときはまたここに帰ってくることにしよう。

一番大切なのは、内省すること。定期的に自らを省みて都度軌道修正をすることだ。

 

20:58

新しい動きを習得するのは楽しい

昨日丸一日オフで、午前中にダンスセッションに参加したあとトリッキングの「エアリアル」とアクロバットの「ガンビ」を教わった。
ガンビのほうは動画撮影中に全然納得できる映像が残せなかったから、Twitterに載せたのはエアリアルだけなんだけど。

身体に新しいレパートリーを教え込むのがすごく楽しくて、身体の中に新たな語彙が生まれるたびに身体が自由になっていくのを感じる。

本を読んだり勉強したりすると目に見えるものの感じ方が変わるようになる、というのはよく聞く話だけど、身体を豊かにすることでも世界の見方を広げられると私は感じている。
ただし基本的には、それは道具を使わず自身の身ひとつで運動をする場合に限られる。

身体が豊かになることと、義務教育で叩き込まれた規則的な身体の使い方から自由になることは比例関係にある。
こういうことを考えるたびに思い出すのは、『体の知性を取り戻す』という本。

身体と協調する

私が踊っているのは、運動をし続けているのは、自分のもののようでいて実は自分のものではない、「自分の身体」と仲良くするためだ。
私の中には私より前に生きていた先人の記憶は残っていない。

しかし、身体の中には「遺伝」という形で、先人たちが代々残してきた足跡がたくさん眠っている。
身体と仲良くしていれば、身体そのものが持っているその足跡の意味を、私に教えてくれるようになるのだ。

身体を動かし、よく休めて労わる。その繰り返しで私と私の身体はどんどん親密になっていく。

私は歳を取ることを嫌悪しておらず、むしろ楽しみでいる。
それは、私が知らないことを、これからまだまだたくさん身体が教えてくれるだろうことを期待しているからだ。

これは、自然に遊び、運動を楽しむ者にしか判らないであろう喜びである。